ジェンダーと知性

2019年7月29日 0 投稿者: terakoya

以下は某大学講師の方にご依頼いただいて、理工学部の学生さんたちに1時間ほどの講演を行ったときの原稿です。現場ではここまでちゃんと話せなかったけど。。。1時間分だから長いです。

ジェンダーと知性 

 こんにちは、ぷーうえと申します。普段は小さなカフェを営んでおります。
 今回は僭越ながらO先生から皆さんにお話する機会をいただきまして、こうしてやってきたわけですが、、、商店街振興とかビジネス論的なお話をしろということかと思いきや、何故かジェンダーについて話してくれとのご依頼でして…私、まったくジェンダーの専門家でもなんでもないんですが(笑)いえね、おそらく先生がそうおっしゃるのは、私の経歴に理由があると思うので、簡単に説明させてもらいますね。
 私は東京で生まれて、2歳のときにカナダはバンクーバーに母に連れて行かれました。どうも海外で子育てがしたかったみたいですね。6歳で帰ってきた私はまともに日本語が話せなかったので、都内のインターナショナルスクールに入学しました。そこは中等部までしかなかったので、中3で中高一貫の私立女子校に編入し、高校まで在籍しました(学期の違いとかのアレコレで普通に高校入試を受けることが難しかったのですね…)。それで受験をして国際基督教大学、今皇族がアレで話題になっている所ですね、そこに入りました。それから、ブラック企業に入っちゃったり、脱サラして英語講師やったり、離婚したり色々して、6年前に高知にやってきたわけです。聞かれる前にお答えしておきますと、高知に来たのは父親の出身地だからです。
 そういうわけで、小沢先生は私にインターナショナルな視点を期待してこのお話を下さったんだと思います。…が、ジェンダーバイアスを意識する頃には私はすっかり日本人アイデンティティーになっておりましたし、恋愛経験も日本人しかありませんので、あんまりインターナショナルな話は出てこないと思います、すいません。
 ということで、私のこれまでの経験や得た知識と、飲食店をやってて見聞きした事柄から、私なりにジェンダーについてお話させていただきますね。

ーー飲食店的ジェンダーあるある
 カフェというのは基本的に誰もが自由に利用できるところですから、それはもう色んな人が来ます。お酒も提供していますから、フランクにお話が聞けますし、お客さんどうしでのコミュニケーションにも様々な様式があって、なかなか社会勉強になるものです。とはいえ、何となく飲食業やサービス業というのは下に見られやすいというか、そこに女性が一人で運営しているということも加わってですね、皆さん色々と好き勝手なことを言ってくれるわけですよ。「高学歴/英語話せるのにこんな所で店やってるのは勿体ない」「もう結婚しないの?」「親に孫の顔を見せてあげなきゃ」「伝票書いてるとき(前屈み)に胸元が見えてエロい」「もっと女らしく振る舞えば素敵なのに」…とね、まぁテンプレばっかりですよ。こんなのは私個人に向けられているのでまだ御しやすい部類なんです。厄介なのは「一般論」。

1,男性本能論
 「男性は子種をばらまいてナンボの生き物で、浮気は本能。露出度が高い服装をしていれば触られて当然。それにバカで子供っぽくてデリカシーがないから、女が上手に管理してほしい。」大体こういう話になります。私は男女に生物学的性差があるのはしょうがないと思っていますし、子種云々の話もまぁ百歩譲って真実だとしましょう。それでもですよ、ちょっと汚い言葉になりますけど、心底こう思うわけです。「テメェの前頭葉は何のために付いてんだ?」目の前にセクシーな太ももがあったから触ったっていうのと、目の前に金目のものが無造作に置かれていたから盗んだってのは同等の話だと思うんですよ。減るもんじゃないって?減るんですよ、自尊心とかその後の服装や動作の自由度とか色々。むやみに人の体に触ってはいけないという認識はある、でも好意的な接触だし、不用意に太もも出してんの相手のほうだし、男の本能にはあらがえないし、どうせイケメンには触らせてるんだろうし…なーんて理屈が通るなんて本気で思っていませんよね?笑って許すのがいい女だとか、そんなバカな男を掌の上で転がすのが出来る女だとか、男からも女からも聞きます。でもね、これは「暴力」なんですよ。荒っぽくないけど、事を荒立てれば女のほうが自意識過剰のバカみたいに見えるし、同質集団の男性は看過するし、男性から見た「いい女」像を押しつけているし、人の権利を無視しておいて「許してねテヘペロ」で済む問題だって思えちゃってるあたりがもう構造的な蹂躙なんです。

2,論理的男性 VS 感情的女性
 「女は政治家になるべきじゃない。感情的でヒステリックだし、生理とか妊娠出産育児とかで職場を離れなきゃいけないでしょ。」と、本気で言っている人を見たときは気が遠くなる思いでした。普段まじめに政治の話をしている人ですよ。ここには論点が2つあって、ひとつめは「論理というものは我々が思っているほど一本道じゃない」ってことです。男性の皆様は、残念ながら自分が思っているほどに論理的じゃない。訓練されていない論理というのは、容易に前提を取り違え、認知バイアスに引っ張られ、根拠にもならないものを根拠とし、結論ありきで「はい論破!」とマウンティングするために行使されます。言論における論理というのは、数学のようにはいかないんです(科学でさえ全ては仮説でしかない、でしょ?)。誰もがそれぞれに恣意的に言葉を定義し、相手を支配しようという無意識の感情に動かされ、都合の悪い事実を軽んじる、これはどんなに訓練された人にでも起こります。それにね、感情だって論理の1つですよ。理不尽なこともいっぱいあるけど、因果関係があって相関関係があって理由付けがあって落としどころがある。そうでしょう?
 論点の二つ目は、「その制度は男性による男性のための男性にとって都合の良い制度なんですよ」ということ。建前として男女平等を謳ってはいても、結局は「俺たちのルールに従えるんなら、仲間に入れてやってもいいぜ」ということです。これは一般企業でも同じです。ルールそのものは何も変わっていない。形式上、産休や育児休暇は設けられているけれど、妙な同調圧力で実際には取得しにくい(このことは女性のみならず、ワークライフバランスを見直したい、あるいは積極的に育児に参加したい男性たちの障壁にもなっています)。そして色んな社会的調査が示していますが、やっぱり女性は評価されにくい。これは他の先進国でもそうです。男性の2倍3倍頑張って、婚期や家庭や個人的な時間を犠牲にして頑張って、やっと同じ土俵で戦える。それでも結婚・妊娠したらお払い箱。キャリアに邁進して生涯独身を貫く女性がいる、成果主義の厳しい現場で戦っていく覚悟をしている人たちがいる、同じように頑張っている男性もいる、全て本当だし大変素晴らしいことです。でも、それはそれ、これはこれ。「自らの選択でプライベートを捨てることを厭わない人」と、「ただ率直に男女平等を望む人」を同じようにに語るべきではないと思います。そりゃ世の中理不尽も裏切られることも沢山あります。社会は本質的に全然男女平等じゃないって知りつつ参加して文句いうなんて甘いかもしれません。でも、みんなが平等を社会的善だと認めているのに、今の制度が自分にとって都合がいいからって、自分は損しないからって、自分には自分なりの苦労があって一緒やんと思うからって、何もしないのはいじめの傍観者と一緒じゃないですか。何かしないとみんな一緒に沈む泥舟だって分かっているのに。

3,女性は女性で自縄自縛
 「女の敵は女」とはよく言ったもので、「男を立てろ」だの「女らしくしろ」だの、よくよくジェンダー問題を強化再生産してくれているのを目にします。誰かの家でホームパーティーをやれば、率先して台所に立ち、男性たちを座らせ、他の女性も働くように要請します。主に中年女性に多いですが、仕方がないのは分かるんですよ、それが彼女たちが獲得した居場所や役割で、処世術で、自分には他にできることがないと思ってる。でも、残念ながらそれは彼女たちの都合であって、それに賛同しない人や常識の違う若い世代に押しつけるべきではありません。
 これの最たる例が(LGBT等の静的少数者には「生産性がない」と発言した)杉田水脈さんで、私が思うに彼女はLGBTについて趣味だとか変態だと内心思ってて、男女としての生理的機能がちゃんと働くのなら、そんなものは我慢するかひた隠しにして「生産的」な人生を歩みなさい、ということなんじゃないでしょうか。たとえばロリコンの人は少女と結婚できないし、マゾヒストの人が必ずしも縛ってくれる人と結婚できるわけじゃない。お見合いなら好きでもない人と結婚するし、やっぱり女の結婚生活はワンオペだし、誰だって何かを諦めたり隠したり我慢して、再生産工場みたいな自分を眺めている。「だって社会はそういう風にできてんだから仕方ない」そうムリヤリ納得する過程で、いわば自分がその中で生きていくことに同意することと引き換えに、他人にもそれを強要する。ルールは皆が共有してなければ意味がない、例外は許さない。だってそうじゃなきゃ我慢して色々浪費した自分がバカみたいじゃないか。…彼女と同種の女性、あるいは自分よりも苦労していない(ように見える)人間や世代を憎む人は、こういう思考なんじゃないかと思うわけです。
 いやもうほんと、東大教授の人が言ってたけど、「ホモ(ソーシャルで)マゾ(ヒスティックな)社会で『一緒に我慢しようね!』という国民性」っていうのが的を得すぎてて泣けます。

なぜ日本の男は苦しいのか? 女性装の東大教授が明かす、この国の「病理の正体」

ーージェンダー意識とは知性である
 我々は、人間について既に多くのことを知っています(それ以上に多くのことを知らないけれども)。心理学や行動学、社会学、政治・経済学に生物学…色んな側面から人間という「現象」が少しずつ分かってきた。なのに我々はまだこんなところにいる。まだ人を差別したり搾取したり蹂躙したりしている。いやんなっちゃいますね。
 たとえば、家事分担や育児休暇の問題。これは人間同士がそれぞれの「やりたくないこと」を押しつけ合っている構図です。男女関係以外にもよくあります。あるいは、杉田水脈さんの問題発言。これは(自分だけ損をするのはフェアじゃないという)「公平性」の感覚の問題。自分が社会に求められた形で適応するのと引き替えに、他者にもそれを強要する。「男らしさ」の押しつけにも見られる構図です。
 これらのことは、ずっと前から分かっていることです。やりたくないこと、自分が今までに我慢してきたこと(サンク・コスト)、それらを自分より立場の弱い人間に押しつけて、抑圧して、既存のあり方を強化再生産する。そして被抑圧民は、暗いところで団結してそんな「社会」に仇なす存在となって帰ってくる。そんな陳腐な物語は、神話から童話から歴史教科書に至るまで、幾度となく目にしてきたのに、まだ飽きないんでしょうかね。

ーー知性とは「より善いもの」を追求する態度である
 ちなみに私の大学の専攻は恥ずかしながら哲学なんですが、哲学は英語で言うとフィロソフィーですね。「知に対する愛」ということですが、まぁ知というのは当時で言えば「神の御技」というか、つまり「善なるもの」を知ることに直結したのだと思います。なんか分からんがもう作為的なまでにやたら良くできている世界というシステムを知ってやろうと。そこからあらゆる学問が発生していった。
 しかし「善」というのはトリッキーで、最初はかなりピュアに「自分にとって(都合の)良いもの」を指していた感じがあります。まぁ、誰かが得してたら誰かが損をしているというのが世の常ですから、善というものをこねくり回していたら色んなパラドックスが発生しちゃって混沌とした今に至っているとは思うんですが。
 でも少なくとも、やっぱり自分もみんなもハッピーになれる世の中を模索していきたいじゃないですか。哲学的にも法律的にも一番難しいものの一つが「権利の衝突」というものだと思うんですが、そういうのも解決していけるって思いたいじゃないですか。そのためには自分の欺瞞を放置してちゃあまずいわけですよ。

ーー自己欺瞞と知性と勇気
 一番気づくのが難しいのは自らの欺瞞です。薄々分かっていながら違和感を放置することもあるし、まったく気づいていない場合もあります。しかし自己欺瞞の慢性化は自己暗示となり、思考停止に陥ります。とくにジェンダーにおいては、欺瞞を放置する大義名分が豊富に用意されているときた。
 先ほどの泥舟じゃありませんが、時には自分の依って立つところを疑問視しなければならなくなります。そのために必要なのは、知的な訓練と、そして勇気です。アドラーじみてきましたけど、結局は当事者意識の問題だろうと思います。「あなたのためだから、社会がスムーズに機能するためだから、みんなやってるから」そう思って、自分でも無意識に手前勝手な欲求を滑り込ませてはいないでしょうか?
 もちろん、何をベースに考えるかとか、知的・精神的発達具合とか、いろんな環境だとか、変数は数限りなくあるんですが…でも、あるでしょうやっぱり、「黒歴史」みたいなもの。昔言ってしまった心ない言葉とか、人の優しさに付け込んでしまった経験とか、自意識が爆発しちゃって周りが見えてなかったこととか。そういう経験、自分の傾向と対策に、徹底的に向き合っていかなければならないわけです。

ーー宗教とプロパガンダ
 とはいえ論理や知性というものが必ずしも人間を「幸福」にするかといえば、微妙なところです。考え続け、疑問を持ち続けることはしんどい。持っているもので満足するのが「幸福」への近道だとも思います。あらかじめ正解が容易されているものが宗教かな、とも思います(もちろん個人的見解です)。そして論理や知性や現行の社会も1つの宗教にすぎないのかもしれない。でもやっぱり「別の可能性」を探してしまう。現状に満足しないのが人間の生存戦略だから。
 私の大学ではクリティカルシンキングというものを最初にたたき込まれます。事実と意見を峻別すること、根拠の正しさを見極めること、論理を検証すること。これは「市民」としての我々が、権威と渡り合っていくための処世術です。権威や人間の欲求や欺瞞の在り方が変わらない限り、この構造も変わらないだろうと思います。権威は自らを永らえさせるために、プロパガンダを使う。人間の認知は驚くほど容易くゆがみます。そして、権威は認知のゆがめ方を熟知している。
 私たちは右だろうが左だろうが権威を常に監視しなければならないし、自分たちが権威を持ったときには気をつけなければなりません。そして、我々は多くの場合、なにがしかの権威、あるいは特権をすでに有しています。日本人であること、男性であること(ときには女性であることも)、仕事に就いていること、五体満足であること。権威や特権というのは自分の努力だけではなく、外側から付与されたものである場合が多い。それらは自分が優れていることを示すものではなく、いかに自助努力を免除されてきたかを示すものです。上野千鶴子さんは話題になった東大の入学式でのスピーチで、それらを自分のためだけに使わないようにと釘を刺しました。

・平成31年度東京大学学部入学式 祝辞

ーージェンダーと身体性、「生きる力」と教育
 ああ、知性の話のついでに…私の嫌いな言葉の一つに、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というのがあるんですが、歴史というのは(これはまぁ俗説でしょうけど)”His-story”から来ているという説があります。恣意的に編纂された、「誰それの物語」、つまり個人的経験。語源の真偽はともかくとしても、知識というのは基本的に「集合知」です。つまり、個別具体的な経験から、「個別性」と差し引いて、万人に適用可能な部分だけを残したもの、ということですね。知識も歴史もその重要性を否定はしませんが、私が先の言葉が嫌いなのは、あまりにも「身体性」というものを軽視していると感じるからです。
 ここでやっとジェンダーの話に立ち返ってくるわけですが、ジェンダーは身体性に直結しています。私たちは身体がなければ外部と接触できませんし、身体を通してコミュニケートしています。身体があるから自分や他人を客体化できるし、客体化できるからこそ他人に冷淡になれるし、逆に他人の立場を想像できるし、自分のことについて考えることができます。知識や知性とは頭脳や論理だけの問題ではないのです。
 ここで問題になってくるのが教育です。ジェンダーというのは我々が生まれながらに持つ社会的な要素の(中でも最大のものの)1つですが、このジェンダーも含めて、我々の社会的な生活を裏付けるもの、それらが教育現場においては非常に軽視されていると感じます。「生きる力」なんてものが提唱されて久しいですが、我々の人生において重要になってくるものって、たとえば何があるでしょう?まずは健康、そしてお金、それに付随して労働(大人になった我々が大部分の時間を費やすものです)、からの経済、政治(あらゆる規模の社会生活において存在します)、家庭・愛・生殖、情報の収集と処理、精神的な健康および心理学の基礎知識、心や文化を育む芸術との触れ合い…お気づきですか?これらは全て補助科目なんです。
 もちろん、英数国理社の基礎科目は重要です。国語ができなければ内面世界やその表出は非常に狭くなってしまうし、歴史から多くのことを学べますし、数学的センスがないと実社会で困ることばかりです。でも、理論系の学問の世界、言ってみれば象牙の塔のような所に子供を閉じ込めてしまうのは、彼らを社会と分断することになります。大人が子供を勝手に隔離して、こんな複雑で難しいことは分からないだろうとか、汚いところは見せないでおこうとか勝手に決めておいて、実社会に出たら「最近の若者は」とか言えちゃうって、すごくないですか?
 上の補助科目たちは、自分の身体や経験を通して学んでいくものばかりです(そりゃ成績評価は難しいかもしれませんが)。それらと理論系の学問が融合してはじめて、知識というものに温かい血が通うのだと思います。先ほどの集合知の話に通じますが、経験や身体性というものは常に知識に先んじているのです。そうでなきゃ、読んだものを理解できても、その意味するところは分からないでしょう。

ーー高等教育を受けた者として
 あなた方はまだ学生です、若者です、モラトリアムの只中です。それを存分に謳歌すればいいし、(親の負担だけ気にかけていれば)大いに寄り道していいと思います。どうしてもやりたいこと、あるいはどうしてもやりたくないことがある場合には、実は選択肢はあまりありません。私も含めた起業家なんてものは、美化されているけど他に選択肢のないのっぴきならない連中ばっかりですよ。そこまで切羽詰まっていないなら、のんびりやればいいんです。後のことはどうにでもなる。
 ただ、「違和感を放置するな」とだけは申し上げておきたい。人間の能力は有限ですから全てのことに関心を持てるわけでも、全てのことを勉強できるわけでもない。でも、出会ったモヤモヤは処理していかないと、心が死にますよ。そしてつまらない大人になる。
 ノブレス・オブリージュと言う言葉は貴族主義的でどうかとも思いますが、我々が相対的に「持てる者」だということを気づかせてくれる良い面もあると思います。私はまぁまぁダメ学生でしたが、それでもここでこうしてお話ができるくらいには、母校で学ぶことができました。一人一人の人間が社会を、世界を作っていく存在だと考えたとき、高等教育を受けられる程度にラッキーだった我々は、何をすべきでしょう?何ができるでしょう?どんな世界に住みたいでしょう?そのためのファーストステップは何でしょう?
 私の悪いクセで、話を広げすぎましたが(笑)、私なりにジェンダーについてお話させていただきました。ありがとうございました。

ーー参考
・フェミに関する「FAQ」:「女性を守れってフェミが言ってる?」の巻

・【書籍】ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問/ 一橋大学社会学部佐藤文香ゼミ生一同, 佐藤文香 (単行本(ソフトカバー))