自由と時間と退屈と
2019年2月13日2016/5/4
高度消費社会を敵視しているらしいムヒカ大統領の名言に「自由とは物ではなく時間が溢れていることだ」という旨の言葉があるが、ナルホドと思う。
では、「時間がある」とはどういうことなのか?
「時間がある」ことと「暇である」ことは同じだろうか?
「暇である」ことに人間はどれほど耐えられるのか?
・・・
時間と自由について考えるようになってから、目的なく無駄に携帯をいじることをやめるように意識している。
いじろうと思えば、何時間でもいじってられるのが恐ろしいところである。
思えば、世の中には「暇つぶし」が溢れるようになった。
まぁ昔もそれなりにあったけど。
例えばゲーセンとかね、特にやりたくもないゲームをやって、不必要に金つかって。
でもそっからエンターテインメントがどんどん発達していって、「面白い」「やりたい」と感じさせるようになってきたってのが凄い。
なんというか、「中毒性」ってやつ。
で、暇つぶしって何かな?と考えてみた。
暇って、わりと不快な状態。
その時間を「なかったことにする」のが暇つぶしじゃないかと。
否、「暇」じゃない、「退屈」かな?
子供の頃とかって、「暇」なことってあんまりなかったような気がする。
あったとすれば「退屈」で、それは「やりたいことをやることを状況が許さない、面白くない状態」だったと思う。
そういう意味でいうと、同じ「暇つぶし」でも、読書とかお絵かきとかは別な気がする。
それは「やりたいこと」だから。
音楽は難しい。
好きなものを聞いてるってのはあるけど、たいていの場合はそれに聞き入ってるわけではなく、静寂や雑音を「なかったこと」にする手段だから。
現代人は総じて、ボーッとする能力が減退してるってことも言えるけど、それ以上に「退屈」に対する耐性が著しく低下しているように思う。
耐性というか、「面白いことを発見する能力」だろうか。
その結果、「暇」=「時間の余ること」さえも、「退屈」と混同して忌避している感じがする。
大人になるにつれて、「やらなければならないこと」を「やりたいこと」に優先させなければならない場面が多くなる。
(この二つが一致してたら、もう少し話は簡単なんだけども。)
「やってはいけないこと」も増えていく。
当然「退屈」がつのっていくし、それに耐えるのではなく、建設的に昇華させるでもなく、「なかったこと」にできるお手軽な手段も用意されている。
でも、「退屈」と同じように「暇」も潰していってたら、「やりたいこと」をやる時間はなくなってしまう。
そして、「やりたいこと」ができなかったことと、本当にやりたいことでないことに時間を費やしてしまったことに対して、モヤモヤが溜まっていく。
下手をすると、「やりたいこと」が何なのか、自分が何を面白いと思っていたのか、あるいはワクワクするという感覚さえ、分からなくなってしまうんじゃないだろうか。
そしたら、「別にやりたいこともねぇし…」つって、用意された「暇つぶし」にまた延々と時間を費やしていくことになる。
恐らく、「暇」というのはこれまで、なにがしかの「生産」に向かっていたと思うのだ。
だけど現在われわれは、(多分お金以上に)時間を「消費」するように仕向けられているのだと思う。
これはコンテンツ産業の一つの弊害ではないかな。
文化のあり方もそうだけど、資本主義のあり方もずいぶん変わってきたんだと思う。
賃金労働との関わりにおいて、お金と時間はこれまでにも資本主義に組み込まれていたけど、それとはまた別の形で個人の「時間」というものが「食われる」ようになってきている。
(「可処分時間」なんていうのは、ずいぶん恐ろしい響きの言葉じゃないか。)
「お金」も「時間」も、これ以上差し出すものがなくなったとき、「消費社会」というものはどうなってしまうんだろう?