自分の立場を定めること(未校正)

2019年2月7日 0 投稿者: terakoya

校正する気力がないので、とりあえずアップ…そのうち直しまする。。。

  論述分を書いたりスピーチをしたりするときには、「主張」が必要である。主張というと何か大げさな感じがするが、だいたい特定の「話題」について話すときには、意識しているかどうかに関わらず主張は存在しているものである。そもそも自分の主観という一つの「立場」から物事について話す場合、その行為自体がすでに相対的な意味での主張となっている。意見や推察や仮説などというものも、主観という一つの立場からの主張にすぎない(突き詰めて言えば「事実」を話している時も、どの事実を選択して話題に乗せているかが恣意性を免れない)。そのことにまずは意識的になる必要がある。自分がするどのようなコミュニケーションも、恣意的な主張であるということ。また、そのどれもが変化の可能性を保持する暫定的なものであるということ。そうでなければ誰の話も聞くに値しないものになってしまうし、そう考えることによって建設的なコミュニケーションを図ることができるのだ。
  しかし、立場や主張というものが自動的・無意識的に決まっていると言っても、論理的・説得的なコミュニケーションにおいては自分の立場について自覚的であったほうが話が捗る。つまり自分の立場を自発的・能動的に「選択」していること。選択するためには選択肢が必要である。つまり一つ以上の角度から考えてみるということをしなければ選択とは呼べない。選択行為を経ていない主張には「理由」「根拠」がない(必要ないから)。その一択のものの多くが「当たり前」とされている物事である。あるいは、ろくすっぽ考えずにテレビなどのインプットをそのまま自分の口からアウトプットしている人々である。
  じゃあ立場ってどのように選択するものなのか。まずは選択肢が必要である、つまり対象を観察すること・知ることだ。科学的方法論に例えてみると少しわかりやすいと思う。例えばカエルについて知りたいとしてどうするか、どうすればカエルを知ったことになるのか。カエルの種類を調べる、カエルを飼育して生態を観察する、カエルを解剖してみる、これだけだとミクロにすぎるので、他個体とのやり取りを観察する、季節性や個体数の増減など環境との相互作用を観察する、DNA分析などで我々とどの時点で分化したのかを調べるなど…。リサーチする必要があるとは限らない。自分の持ってる情報を整理してみればいいだけのことも多い(「ちょっと考えてみればわかること」を我々は意外としていないことが多い)。
  カエルと同様に、例えば今ホットな水道民営化について考えてみたとしよう。水道事業というものはそもそもどんな作業を含むのか?今我々はどのように水を使って支払っている?だいたい水源はどこ?民営化ってどんな手順で行われるの?法的にアリなの?清潔な水にアクセスする我々の権利の侵害は起こらない?メリットデメリットの説明は十分?商売が絡んだら過疎地域などは不利にならない?競争の原理はちゃんと働くの?電気みたいに新規参入もアリになるの?よその国では失敗してるらしいけどマジ?そもそもライフラインや社会的インフラを国はどの程度面倒見るべき?そしてニュースを見たり人の話を聞いたりするたびに、自分の中の水道民営化のデータは更新されていくことになる。
  ある一つの対象物に対して一つや二つの視点数しか持っていないのでは、なかなかその物について知的操作を加えられない(あるいは、知的操作を加えられるレベルが低い)→選択行為に及びづらい。視点数が増えるほど、対象物の輪郭が浮き彫りになり、それを全体性を持った物として扱える→吟味できるようになる。そして視点数が増えるほど、一つ一つの視点は相対的な物として対象化しやすくなる→つまり、視点そのものについて議論できるようになるわけだ。
  自分が何についてどのように考えているかに自覚的になれるのはメタ視点の獲得というものだ。メタ化というのは「より上位のシステムから見ること」つまり「引きの視点」。例えば一人称視点(「あなた」)から二人称視点(「私とあなた」「あなたから見た私」)、さらに三人称視点(「二人の人間」)や鳥瞰(「高知市の街角の二人」)やグローバル視点(「日本の高知の街角の二人」)などのようにどんどん視点を引いていけるし、引けば引くほど基本的には視点数が増える。このように引き方にもレベルがあるし、話題や状況によって適切な引き方というのもある。
  もちろん、人間はすべてのことに興味を持ったり精通したりできないので、完璧である必要は全然ない。しかし、きっかけというものはあるので、意識に留まったものがあったその時々で少しだけ腰を据えて自分の立場について考えてみるといい。特に小論文試験やスピーチ試験など、事前準備のできないものに取り組んでいる人は、これらの普段の作業が問われていると言っていい。普段からちゃんと考えていることに関しては自信と熱量、それによる説得力が段違いである。