個人主義的コミュニケーション論

2019年2月3日 0 投稿者: terakoya

2016/2/13

私は人に言わせると話を聞くのが上手らしいのだが、それが何に由来するのか少し考えてみた。

私は基本的に、他人にあまり興味が無い。
いや、興味がないというと言葉が悪いんだが…

つまり、人の経験というのは大体において、その人の人生にのみ有効なのだと思うのだ。

例えば、「私は(審美眼とか)何か特別な能力を持っている」という人を何人か知っている。
それは、全くその通りかもしれないし、単なる勘違いかもしれない。
だけど、最終的に他人にはどちらか分からないし、どちらだって構わない。
だからそのまま鵜呑みにするわけでもないけど、8割ぐらいは信じている。
おそらく信じているということが伝わっているから、その人は気を良くする。

他にも、自分はこんな経験をしてきた!って嬉々として話してくる人がいる。
信じ難い話もあるが、真偽のほどは分からなくても、べつにどっちでも私の人生に与える影響はほとんどない。
その人が私に向かって嬉しそうに話しているのを見て、素直に「良かったね」と思う。

人生の先輩は敬えというが、「ほんの数年・数十年先に生まれただけじゃねぇか」ということを抜きにしても、結局同じ人生を歩むことが不可能な以上、すべてはただの「違い」に還元される。
あなたと私は違うとか、女と男は違うとか、日本人とアメリカ人は違うとか、そういうのと大差ないのだ。
だから、人と話すとか人の話を聞くというのは、相手と双方向的コミュニケーションができるだけで、実は本を読んでいるのとそう変わらない。
「他人の目を通して世界を見る体験」「他人の人生を垣間見る体験」なのだ。

私はそういう意味で、良くも悪くも「区別・差別」をあまりしないのだと思う。
だって違うのが普通なんだから。
知らないのが、分からないのが、普通なんだから。

だけど、「自分の人生に直接影響を与えない・有効性がない」ことだからといって、聞く価値がないわけではない。
人の話を聞くことも私の仕事だからとりあえず聞いているけど、それなりに楽しんでもいる。

「私とあなたは違う人格をもった違う人間です」というところからスタートしているので、コミュニケーションに適度な(?)距離が生まれる。
そうすると、「へぇー知らなかったそうなんだ!」も「それマジわかるわー!」も、どちらも新鮮な驚きたりうる。
知らなかったことを知るのは面白いし、別々の人間が同じような体験や考えを持っていることを知るのも同様に面白い。

同じ日本人なんだからとか、同じ女なんだからとか、同じ人類なんだからとか、「共通するところがあるからには、根本は同じはずだ」という思い込みが齟齬を生む。
この思い込みから「当たり前」が生まれて、「当たり前」から「阻害」が生まれる。

たかだか一万年そこらかもしれないけど、人間はそれなりに時間をかけて分化して、それぞれに文化を積み重ねてきた。
アメーバみたいに同一細胞が分裂しているわけではない(分裂したアメーバだって別々の魂を持っているのかもしれないし)。
たまたま言葉が話せるので何となく意思疎通ができてるつもりになってるだけで、実は何も分かってないのかもしれない。
あるいは、言葉には乗せられないところで、実はみんな同じ何かを共有しているのかもしれない。
人間は人間が考えるほど単純な生き物ではないのだと思う。

人間は現象なのだろうな。
時間が一方向に進む限り同じ現象は再現されないし、再現されなければ一般化することもできない。
現象は人間の手に負えないので、つまるところ、人間は人間自身すら手に負えない生き物なのだ。

その中で人間が唯一理解しうるのが(不可解なことも多いけど)、「自分」という現象なんじゃないだろうか。
誰かが座右の銘にしてたけど、「人は自分の人生しか知らない」のだ。