記憶と記録
2019年2月3日2016/6/19
デジタルの撮影技術とかデータ処理の技術が進化することによって、我々は「そのときのそのもの」からは遠ざかっていると思う。
写真に映らないものは覚えていて、写真に写ったものは覚えていないように。
「あの料理、あんまり美味しそうで写真とる前に食べちゃった!」
「この写真のラーメン、どこのだっけ?」
情報過多の社会になったけど、そのぶん情報の外部記憶化も進んでいる。
「処理」する情報は増えたけど、頭のなかに残っている情報の量は大して変わらないのかもしれない。
「シェア」することなく、自分だけが大切に抱えている情報(思い出とか感情とか)というものの価値は、本質的には変わらないのだろうけど、その相対的な価値は下がったと思う。顧みられることが少なくなったというか。冷めることのない魔法のホッカイロみたいに、折に触れポケットの中で握りしめることができて、じんわり心をあっため続けてくれるような、そんな自分だけの思い出。シェアできんよそんなものは。
あと、会話(チャット)のやり取りをスクショで送ったりできることで、説明能力とか想像力とかが減退していくように思う。
それに代わる新たな能力が重要になるのか、あるいは相変わらずそれらが大切なのか?まぁ両方だろうけど。