言葉に敏感でありなさい

2019年1月23日 0 投稿者: terakoya

  国語科の教育で一番大事なことは、大きく言えば言葉のセンスを磨くことです。それは文学を 通したものでもあるし、文法を通したものでもあります。センスとは所与のものであると考えられがちですが、物心ついたときに備わっているセンスとは環境によって後天的に身についたものである場合がほとんどです(それだけでは説明できない、いわゆる「天才的センス」というものを単に「センス」と呼んでいる場合が多いということです)。つまり、センスとは鍛えることのできるものなのです。言語センスの場合、それはまず「言葉を正しく使えること」に始まります。それから、言葉によって表現される(あるいは言葉そのものであるとも言えますが)「論理」を駆使すること。さらにまた、時と場合によって異なる言葉の妙味を理解し運用
することを学びます。

日常の中の言葉にもわかりやすさを求めなさい

  だいたい最低でも小学校を修了していれば、言葉の「正しい」使い方、あるいは「標準的な」日本語が分かると思います。最近のテレビは言語が乱れていると言われますが、それでもある 程度「標準語」の指標にはなります。それでも、日常的に使う言葉というのは、自分だけが分かっていて他人にはすぐには分からない使い方をしていたり、個々別々の小さなコミュニティに最適化されて、そのメンバーにしか分からない使い方をしていたりするものです。分かりやすいところで言うと、主語や目的語の抜けや、言葉の省略などです。その原因は、たとえば家庭内なら「分かるだろう」という甘えであったり、若者同士のコミュニケーションであれば「そのほうが格好良いから」などかと思います。
  ですが、言葉に敏感になろうと思うのなら、上記のような言葉の使い方は(少なくとも一時的に)控えたほうが良いでしょう。そうすることで養いたいのは、まず「他者意識」です。自分と価値観や周辺情報を共有していない(かもしれない)人間に対して、どのように話すことが適切か?ということを意識しましょう。また、そのとき重要になるのは「過不足のない伝達」です。「ぬかりなく、くどくなく」という絶妙なポイントを考えてみましょう。もちろん、どのような内容なら「過不足なし」と言えるのかは時と場合によって異なるので、常なる鍛錬が必要です。

一方で「わかりやすさ」には注意しなさい

  「わかりやすさ」というのは非常にトリッキーなものです。前述したわかりやすさというのは、言ってみれば「正確な伝達」ということなのですが、注意しなければならない「わかりやすさ」とは「単純化」のことです。
  我々はものごとを説明するときに様々な方法を使います。たとえ話や具体例を挙げることなどが代表例ですね。たとえば子供に政治や経済のことを教える状況などで、細かいことは省いたり一緒くたにしたりして、話を分かりやすくしようとしますよね?同様に、あまりにも「わかりやすい」説明には、そういう要素が入っている可能性が高いということです。都合の良いたとえ話で誤魔化したり、小さいけど重要な差異を省いたり、極端な例だけを挙げたり…そういった話の誤謬や誤魔化しに気づくのは容易ではありません。日頃から「正確な伝達」と「わかりやすさ」の違いを意識するようにしてみましょう。

類義語や類似表現の小さな違いに注意を払いなさい

  我々は言葉によって世界を描写しています。一方、言葉というのは逆に我々が世界を描写していった「結果」生まれたものであると言うこともできると思います。類義語や多義語の複雑性や重層性というのは、そのまま世界の複雑性や重層性だと思うのです。つまり、同じ意味で使われている別の言葉でも、「違う」からには、それぞれ世界の別の側面を描き出しているということです(私の専門は英語ですが、日本語の単語どうしの差異に留まらず、日本語と英語のように言語そのものが違う場合、その世界の捉え方がどれほど違うことか!一対一の対応訳関係になど、なりようがないのです)。多義語も、全く別の意味を統合しているくせに、同じ言葉が連想されるというのは、非常に面白いですよね。
  差異があるからにはどんなに似ていても別のものだし、それぞれが広く派生した結果、別々のものが巡り巡って意味を重複させることもあると思います。そこにさらにTPOなどの条件が加われば、もっと複雑になるわけです。

言葉と状況を切り離してみなさい

  言葉によって伝達される内容が状況によって大きく異なることがある一方で、その状況を発信者側がコントロールできない場合があります。特に文字になってしまうと、読み手の状況や読まれるまでのタイムラグ、最初から最後まで読んでくれるかどうかなど、読み手側に依存する要素が多くなってしまいます。
  言葉の意味は本質的に状況に大きく依存する「システム」であり「ダイナミクス」ですが、それでも同一システムの中に自分と相手がいるかぎりは、正確に伝えようとする努力をすることはできます。そのために、言葉が社会的に持つ「最大公約数」を意識し、状況からある程度切り離した場合でも自分の意図する意味を伝えるためにはどうするべきかを考えるようにしましょう。

そして言葉だけでなくそれを取り巻くものにも注意を払いなさい

  言葉の意味が状況に大きく依存すると述べましたが、言葉を取り巻くものにはどのようなものがあるでしょうか?大きく言えば、時代やその当時のテクノロジーレベル、社会情勢など。そのほかに、ビジネスやアカデミックなどの場面、既知の仲かどうか、価値観や知識を共有しているかどうか、権威や利害の関係性。細かいところでは、声のトーンや目線その他の仕草などが挙げられます。

哲学が普遍的である理由

  哲学というのは基本的に、「世界とどう関係するかの学問」「考えることを考える学問」だと思います。この哲学に欠かせない「考える」という作業に関して、言葉の存在を抜きに語ることはできません。確かに非言語的な経験や知識というものは存在すると思いますが、意識的に何かについて考えるとき、我々は言語抜きでそれを行うことはほとんどできません。そもそも、認知活動自体、つまりたとえば風景を見たときに「山」を見、「川」を見、「野原」を見ていること自体が、言葉による世界の分節の影響をもろに受けているのです。抽象的で分かりにくいと言われる哲学ですが、ものを一般名詞で呼ぶ行為をしている時点で、すでに「抽象概念操作」を行っているのです(このチワワとあのチワワは同じチワワなのかと考えることと、神がこの世に存在するのかを考えることは、実はだいたい同じような知的操作です)。
  また、言葉を獲得したこと、たとえば犬を犬と、花を花と、私を私と呼ぶことができるようになったことで、ものごとを対象化して捕らえることができるようになりました。そして、対象化することができるようになって初めて(意識的・体系的に)対象に「操作」を加えられるようになりました。自分を自分という「対象」「客体」として認識できるようになって初めて、我々は恥だとか所有だとか善だとかについて考えられるようになったのです。言葉を使う限り、考える生き物として生きる限り、我々は哲学と繋がっていて、だからたぶん哲学はどの学問にも顔を出し、ずっと無くなることはないのだと思います。